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鎌倉 宇都宮稲荷神社 2012年04月07日

《宇都宮稲荷神社について》

宇都宮稲荷神社は、宇都宮朝綱の祖先藤原通兼関白の曽孫宗円が、日光山宇都宮神社の別当職にあったため、当地にその分霊を勧請し、稲荷神社を建てたと云われています。
神社の前には辻子幕府跡の石碑がたっており、その敷地の広さは東西、南北とも約200mだったと推定されています。


嘉禄元年(1225年8月16日)、北条政子が亡くなり、源氏三代の政権が終わると、北条泰時は北条政権の確立を図り、この地に新しい御所を移転しました。北条泰時は、この御所で新将軍・藤原頼経の元服式を行い、武家の初の法律、御成敗式目を制定しました。しかし、この新御所では権力闘争に伴う陰謀術数が渦巻き、嘉禎2年(1236年)、僅か12年で若宮大路に幕府は移転しています。

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【宇都宮稲荷神社を散策】
鎌倉駅東口を背に直進すると、若宮大路に出ます。
若宮大路を左(鶴岡八幡宮方向)に進むと、二の鳥居があるので真ん中の段葛を歩きます。100m程進むと、右手に鎌倉彫会館とカトリック雪ノ下教会があります。
その角を入り、突き当たった所に『宇都宮稲荷神社』があります。


《辻子》
辻子(ずし)とは、大路を結ぶ小道の意味で、宇都宮辻子は西の若宮大路とその東側の小町大路を結ぶ小路であり、石碑の隣にある宇都宮稲荷は、かつて御所内にあったと伝えられており、北条泰時の屋敷もこの御所の北側に隣接してかまえられていたと思われます。


宇都宮の名称は、治承4年(1180年)源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時、評定衆に列する重臣のご家人であった宇都宮朝綱がこの地に屋敷を構えたことにちなんでいます。宇都宮の姓は、藤原通兼(藤原道長の兄)の直系で、末孫宗綱が宇都宮の姓を名乗ったことに始まり、宇都宮朝綱の孫頼綱は、北條時政の女婿でしたが時政の娘政子(頼朝の正室)と弟義時と時政の確執により鎌倉を追われることとなったと伝えられています。ちなみに、宇都宮一族の先祖は藤原鎌足であり、下野国(現在の栃木県)の豪族という名だたる宗教家で、また「鎌倉歌壇」とは違う京風の歌壇である「宇都宮歌壇」を有して、多士済々の人物を輩出していると云われています。




※写真に記されている番号は、上の地図にあるカメラマーク の位置から撮影しました。
【宇都宮稲荷神社についての参考サイト】